邂逅録 00  切欠 ■ ステージで歌う少女の姿を遠間の観客席から一瞥すると、男は建物を出た だが彼は、その会場を直ぐには去らずに、数本の煙草と共にその場で暫しの時を費やす 紫煙を燻らせながら目を細め、何事かを思案する様な表情を見せて 丁度、10本目を揉み消した時だろうか、建物からバラバラと出始める人々の姿に彼が気が付く その様子を見て煙草をポケットに仕舞うと、建物に向かって歩き始めていった ■ 少女は、控え室からサービスヤードを抜けて帰路に付こうと思っていた その通路の途中に、やや長身の年配風の男性が立っているのが、ふと彼女の視界に入る だが、存在している事を認識しただけで、それ以上の意識は向かない 彼とすれ違う、その2秒後迄は 「如月千早君、だね…?」 年配風の男 ―――― 彼の声が千早の耳に入る 声に歩みを止めその場に立ち止まると、彼に向かってユックリと彼女が体の向きを変えた 「はい」 厳しい視線と共に、千早の声が通路に響き渡る その声は、あまりにも奇妙な印象の為に、彼にとっては今でも忘れられない 初対面の人間相手に、こんな出会いをするならば、大抵は警戒の色が浮かんだ声色になる物である だが、今の彼女の声にはそれは欠片も含まれて居ない 代わりに有るのは、拒絶、威圧、…そして、僅かばかりの空虚 それが、凛と澄んだ美しいまでの声の下に潜んでいる ( ほお…。 やはり………な ) 改めて聞く彼女の声に目を細め、得心した様な表情へと彼の顔が変わる 「私に何か用が御有りなのですか?」 が、此方は相変わらず彼に対する姿勢は崩れない 「…。何も無ければ失礼させて頂き(ry」 「君は…、何故歌うのだね? 何故、歌わねば…ならんのかね?」 千早の眉が、僅かにピクリとだけ歪む。その心の内を悟られまいとして、努めて平静を装う為に 彼の言葉は電撃の様に、激しく千早の体を貫いていた 彼女の心を寸分の狙いも狂わずに、打ち抜いていたからだ そんな事は…貴方に言われるまでも無い 一番良く知ってるのは…………この、私なのだから 頑なに開く事を拒む道を選び続けて来た心の扉が、又、ぎしりと嫌な軋み音を立てて触れる者を拒絶しようと主張し始める 初めて千早は、彼とまともに視線を交わす 男の瞳は、とても独特で不思議な色を湛えていた 今まで有った、どの人々にも似ている物は無い 無論、一番近い唾棄すべき両親の物とは似ても似つかない色だ だが何処かで見かけた様な気もする 記憶の糸を辿りながら、千早の口から言葉が紡がれて行く 「…それを貴方にお答えする義務が、私に有るとでも?」 「いや、無い」 ならば何故そんな事を聞くのか?と言葉に出掛かった瞬間、彼女より先に男の次の台詞が聞こえた 「だが、その答えを叶えたいと思うなら…  君の天稟、私に預けて見る気は無いかね? 響かせる…届かせる、力を欲するなら」 今度は、ドンッ!と重い衝撃が彼女の心を襲った 何故この人は、ここまで私の心を言い当てるのか? この人は何者なのだ? ふと、混乱し始めている千早の前方が少し陰を帯びる 顔を上げると、彼が千早の眼前に立って小さな紙片を差し出していた 「済まなかったね。 いきなり不躾な問答に付き合わせてしまって。 私は、高木と言う。」 小さな紙片 ―――― 名刺を受け取り目を落とすと、そこには『765プロダクション  代表取締役 高木順一郎』と書かれていた 再び千早が顔を上げると、彼が立ち去って行く 「今の問いの返答、直ぐにとは言わん  だが、君にその気が有るなら…来てくれ給え。 きっと、そこから先の道に君の求める答えが有るだろうから」 高木の後ろ姿と共に、又、名刺を千早が見つめる それは、疑心、不安、恐れ、困惑、驚愕と言った様々な感情を綯い交ぜにした様な表情だった ただ、パンドラの箱の最後に残っていた『希望』という名の色も交じって その数週間後、765プロのビルの前に立つ事になる千早 これは、彼女のその姿を見る切欠となった或る日の出来事である