邂逅録 01  心と私 ■ 無言で玄関の扉を開けると、其処には当然の如く内部に広がる静寂が有った 少なくとも母親が帰って来る夕刻を過ぎるまでは 暖かさや温もりと言った比喩とは、既に無縁となったこの家 『空虚』 ふと、そんな言葉が脳裏に浮かぶ 最早確かめる迄も無い当たり前となった日常を象徴するこの言葉が、今日も自分の存在する位置を否応無しに再認識させてくれる この家には…私には、何と似合いの言葉なのだろう 『空っぽ』なのだ 家も、そして、この私の心の中も 彼女の唇の端が僅かに歪む ―――――― 抑揚の無い感情を殺した、まるで氷の様な微笑 その微笑が、フッと自嘲に変わった 「何を今更…」 自問自答を思わせるその台詞だけを呟くと、静かに家の中に消えていく 彼女と静寂以外には何も無いこの家の中に ■ 気が付くと、窓外の色は宵闇色に変わっていた 煩わしい声が下階から聞こえて来る 最も彼女にとっては、とうの昔にノイズに替わって久しい物だが つまり、それは有っても無くてもどうでも良い、路傍の石にも似ている 何の興味の対象にも為らない、彼女の意識に歯牙にも掛けて貰え無い哀れな存在 ――――すなわち、『空虚』と同義な 気だるそうに制服姿の身を起こすと、机の上に置かれていたあの名刺を手に取る 「高木…順一郎……か」 不思議な男だった まるで、自分の心をハッキリと己の目で見た様に言い当てて来た しかもそれは、両親とは名ばかりの自分の事しか見えないあの2人には到底真似の出来ない芸当 どうして、あの人は私の心が見えたのか? 確かに、『人の心が読める』と言う言葉はある だが、それは簡単な行為に関しての物が殆どで有って、ああまでズバリと言い当てられる物では無い そんな事が出来るのは、神か悪魔か、或いは人外の者だけだ ならば、彼は? その人外の存在とでも? 馬鹿らしい 自嘲気味の表情で、再び名刺を机の上に置こうとする ふと、その彼女の視界の隅に動く物が入った 途中で止まる彼女の動き それは、鏡に映った自分の姿だった。そこには、表情に乏しい虚ろな一人の少女が映って居る ふふ…。今の私か…お似合いの姿よね、私らしくて… 又もや、自嘲気味の表情が浮んだ 不意に何かの壊れる音が聞こえる 下階から、2人の諍いで物の割れる音だ と同時に、瞬間的に彼女の心の奥底から熱い衝動が吹き上がってくる、封じて久しい衝動 怒りと破壊だ 又なの…? 何故、そんな…そんな不毛な事を…? そんな事を続けて、あの子が…帰ってくるとでも…思って…い…… 苦しい、叫び出したい、この狂おしいまでの怒りをあの2人に全てぶつけてやりたい、全てを壊してしまいたい せめてあの子が、安息出来る様に 自分自身で己が身を抱き、今にも破裂しそうな衝動を辛うじて抑え続ける その衝動は今や、破壊衝動と紙一重なのだ 原始的な欲求に酷似した、純粋なる破壊欲求 全て壊したかった この『空虚』を 跡形も無く 粉々に 又、一からやり直す為に 家族の再生の為に だが、それは非常に危険な衝動でも有った その衝動に身も心も委ね、衝動が終を迎えた時、そこには何が待っているのか 壊せたのは、果たして『空虚』だけなのか? 『全て』を壊しているのではないのか? 『全て』を壊すと言う意味は? 朧げながら、その答えは判っている 恐らく残るのは、この『私だけ』だろうと。 そして、もう一つは『弟への想い』だけだろうと だから、彼女は封じた 怒りと破壊を だから、その替わりに賭けたのでは無いのか? 『弟への想い』に。想いを伝える為に、自分が出来る事 ―――――――― あの子が好きだった、私の『歌』に ■ 何時の間にか、衝動は跡形も無く消えていた 代わりに、鏡の中の少女は一滴の涙を頬に伝わらせて 何と悲しそうで、何と憂えて、何と優しそうで… ああ、判った 彼が、何故私の心を言い当てたのか。何故、ああまでピタリと言い当てたのか それが今判った 私の心を見たんじゃ無い 私の渇望を、私が心を映し出す姿を…私自身を彼は見たんだ 再び、名刺に視線を落とす きっと、彼なら…彼なら私のこの渇望を満たしてくれる道を与えてくれる気がする いや…恐らくは彼以外の元では無理だろう 鏡の中の少女の瞳に、初めて力の篭った光が宿った