邂逅録 03  その男、高木 ■ 「それじゃ、少し待っててね。 社長、もう近くまで戻って来てるらしいから」 笑顔を見せながらそう言うと、その女性は社長室から去っていった 音無小鳥と言う名の女性事務員だ 人懐っこく屈託の無い小鳥の笑顔を見て、ふと浮かぶ記憶の底に有る自分の笑顔 私も、又何時か彼女の様に笑える時が来るのだろうか… 今となっては、望むべくも無い過去 だが本当は、それこそが彼女の渇望の根源なのかも知れない 笑う事を止めてしまった、いや、止めざるをえなかった彼女にとっては だから、笑いを失った代わりに、今は居ない弟が好きだった自分の歌へ ―――― 歌う事へ、より強く傾倒していく事になったのだろう きっと、そうでもしなければ彼女の心は、とうに壊れていただろうから 私には代わりに歌が有る あらゆる物を捨て、最後にして唯一の私の持てる武器 大地に、人に、そして天に、私の想いを響かせる術 何時かきっとあの子の元に届くまで、私はその武器を持って進む事を誓ったのだから 目を閉じて、あたかも静かに瞑想をする様に再び己の決意を噛み締めて行く ■ 扉にノック音が響く 同時に聞き覚えのある声が、扉越しに伝わって来た 「遅くなってしまって済まんな。失礼するよ」 次いで、扉がカチャリと開く 「…ああ、構わんよ。そのままで」 立ち上がろうとした千早を、彼が言葉で制した 気のせいだろうか? 初めて会った、あの時の一種の鋭さの様な印象が彼からは感じられない 受けるのは、齢を重ねたそれ相応の人当たりの良さそうな雰囲気だけだ 「では、失礼して」 微妙な違和感を覚えつつも、彼の言葉に軽く頷く千早 高木が対面のソファに腰を下ろした 不意に彼が口を開く 「あー、すまんが…良いかね?」 見ると手に煙草が有る 「個人的には嫌いですが、未だ私は御社の従業員では有りませんので。お構い無く」 「はっはっはっ。 ハッキリと言うものだな、気に入ったよ。 ならば、敬意を表して失礼ながらこれだけ…とさせて頂こう」 チンッとライターの音が響くと、彼の煙草と鼻腔から紫煙が立ち昇る 一瞬、彼の目の前が煙で曇った その煙が薄らいだ時、千早はドキリとする 又だ。あの時の目だ 私の全てを見透かす様な、あの目 紫煙の向こうから、彼が真っ直ぐ自分を見つめている 唯々、黙ったままずっと 「…決めた様だね?」 ふと、高木が切り出し始めた 「はい………」 その時の私の顔は多分晴れやかな物では無かったと思う 胸中に携えて居る、唯一つの想いだけで彼に相対して 私の決意は、傍から見れば決してドラマの様に格好の良い物では無かった いや…他人から見れば、寧ろとても無様な物に見えたかも知れない 逆に、それを己の決心と呼ぶなら、世のドラマは全て極上のオペラにも見えるからだ 両親の諍い、破壊欲求の代替、己の心の醜悪さの吐露 全て私自身の、謂わば私を取り巻く負の要素の集積の様な物だったから きっと他の人なら、そんな無様な物なら、もう少し取り繕った格好の良い真似の一つも出来るのだろう だが私には、そんな器用な真似は出来ない だけど『弟の後押し』が昇華してくれたこの純粋な想いは、紛れも無く確実に私に残る唯一つの真実だ そして、この想いは決して私だけの物では無い これだけは、喩え何が有っても、曲げて伝える事は許されない想いなのだから 「…私はね、君のその顔を見たかったのだよ」 不意に暫しの沈黙を破って、彼が再び言葉を放つ だが、その言葉の意味する所が判らず、私は表情で彼に聞き返す 「若し君が…、他の子の様に取り繕った顔を見せるなら…断るつもりだった。 最も、多分それは君にとっては有り得ない事なのだろうけど」 穏やかな笑顔が、彼に浮かんでいる 「君が見せる素直な想い…。 その想いが一途で有れば有るほど、君は率直にその姿で見せてくれるだろうと思っていたから」 又、彼から緩やかに紫煙が立ち昇っていく ああ、そうか…やっぱりこの人には、見えているんだ 私の何もかも。そして、私のこの想いも …私は、この人の下で進んでみたい 道を見つけて行きたい この人の下なら、必ず私の道は見つかると思うから ■ 「あの…」 思わず吐いた私の言葉を、手振りでその先を制する 「ようこそ、765プロへ。  道は険しいのかも知れんが…、きっと君なら進めるだろう、見つける事が出来るだろう。頑張りたまえ」 彼がニカリと笑った その笑顔を見て、急速にある感情が湧き上がって来る 忘れてしまっていた、心の奥底に仕舞い込んでいた感情が 私は微笑むと、彼に深々と頭を垂れて居た 私の新しい道は、今、ここから始まる