「あんなに鼻の下伸ばして、デレデレして…」 かなり憮然とした表情の彼女 「ち、違うって。そんなつもりは無いよ」 「では、どんなつもりで?」 「そ、それはだな…、その、だ、男性の生理現象みたいなもので(ry」 「疚しい所が無ければ、ハッキリと言えるハズでしょう?」 「うっ…」 反論をピシャリと返されて、返答に窮し口篭る 「…もう…。もっとしっかりして頂かないと。ランクも上に来て気が抜けなく為って来ていると言うのに…」 少し呆れ顔になった千早が言った 「兎も角、今日はこの辺で帰りますから。 又、明日の御指導の程、宜しくお願い致しますね?」 チョッとした動作でも流れる様な立ち振る舞いを当然の如く日常としてしまった彼女が、見事な踵を返し去って行く プロとしての明確な自尊が、体に染み付いている証拠だろう 何処で誰が見ているか判らない、そんな類の懸念が生来真面目な彼女にそうさせているのかも知れないが が、少し妙だと思う 彼女の意識が、何処まで変わったかは俺は知らない しかし出会った時から此処まで来て、確かに彼女の内面が変わって行った事は感じていた もっと前向きで、明るくなったな…と それは、彼女の両親の離婚を境に特に顕著に現れて来ている事実が物語ってもいた 『少しづつ、彼女が俺に心を開き始めてくれている理由とは?』 少女とも言える彼女にとっては、そう軽々しく切り離せない現実 身近で大切な支えを失ってしまった人間は、誰に頼れば良いか? 逆に言えば、この疑問は、そう考えると簡単に答えが見えて来る話でも有ろう だから、だ 尚更、妙な違和感を覚える 出会った時ならいざ知らず、心を開いて来てくれている彼女から今の台詞は俄かには納得し難い それは、台詞自体の事を言っているのでは無い 寧ろ礼儀正しい彼女から、そんな台詞が出て来るのは別に可笑しな事ではないからだ 可笑しいのは ――――― 声のトーン 表情こそ何時もの物と大過は無かったが、声のトーンと言うか質というか、その辺の感覚が聞き慣れた物とは微妙に違っていた気がする 唯、今の台詞のその違いを、恐らく彼女本人は気が付いてさえいないだろう だが、それほど微妙な物にも係わらず、確かな奇妙さを覚えさせられる違和感だった 最も、それが前兆だった事に気が付くのは、もう少し後になっての事 その時は、既に戻れない所にまで来てしまっていた事にも、同時に気付くのだが ■ 「ね? ね? だから、今晩どうです? 今日は確か早めでしたよね?」 「い、いや…。ですがね、俺も残務が有るのでこんな時位は…」 「あら? 音無小鳥監修『厳選・秘蔵写真 千早−15才−』ですよ!?」 傍から聞いていると一昔前のヤバイ写真集の様なタイトルをぶち上げ、眼が輝いている小鳥が言う 「好きな人に打ち明けられない、恋する乙女の心と姿、余すトコ無くバッチリ写ってるんですよ? あの千早ちゃんの!  それを…それを、断るなんて!? ああ、世の中にこんな人が居るなんて、信じられない…!」 「あ、あのですね…」 そう言うのは秋葉原あたりで頼みます、と思いながら軽くコメカミを押さえるP 「楽しそうですね」 ゾクリ 本当に一瞬だった 全身に冷気を浴びせられた様な感覚に、2人の肌が粟立つ 焦って振り返ると、彼女の姿が視界に映る しかし表情は至ってにこやかで、今感じた気配は微塵も感じられない 腑に落ちない表情で、Pは首を捻る だが小鳥は違った 普段、観察日記等と茶らけた言動をしているが、それも高木に劣らぬ鋭い観察眼が有っての事 その眼が確かな物で有る事は、ごく少数の人間だが皆認めている その小鳥の表情には、笑顔こそ浮かんでいるが眼は笑ってはいない 目前の千早が発した今の気配を、確実に捉えていたからだ 過去に彼女が見せた雰囲気の、そのどれとも今の物は違う そして、今しがた見せた彼女のあの眼の光りは、およそ覚えている限り、まるで次元の違う異質な物だった 慌てて取り繕う様に小鳥が言う 「な、何だ、千早ちゃんじゃない」 「すみません、驚かすつもりは無かったんです」 「そ、そう…」 「それより、何か楽しそうな物でも見てたんですか?」 「え? そ、そうよ…」 ゴソゴソと数枚の写真を取り出す小鳥 「ほら!千早ちゃんの…秘蔵写真! 見て、この表情! ああ、こんなに素敵なのよぅ…」 「なっ!? ま、又そんな物を!?」 「あら、だって萌えるじゃない?」 「お、音無さんっ!」 顔を赤らめて必死に写真を奪おうとする千早を、楽しげにあしらって行く 内心、何時もの姿に少し胸を撫で下ろす彼女 だけど…ヘン、だなぁ… あれ、絶対普通じゃ無い…と思うんだけど… ■ その数日後の事だった 「じゃあ千早、俺、小鳥さんと経費打ち合わせするから」 「はい」 「そうだな…、まあ1時間も有れば」 「判りました。では、私は構成と曲の確認でもしています  此方も細かく見ていくと同じ様な時間が必要だと思いますので、丁度宜しいかと。意見が有れば書き留めて置きます」 「了解」 そう言って小鳥の席の隣にPが移動し、やがて打合わせを始めていく ふと、あれ?っと思った 何とは無しに顔を上げた時に、確かに視界の片隅に千早の視線を感じたからだ 可笑しいな? 彼女、歌絡みの事をしてる最中は殆ど周囲なんて気にしないのに 「…あの、小鳥さん。チョッと良いですか?」 彼が考える様な表情を見せた後、声量を落とし小鳥に顔を寄せ尋ねはじめた 「何ですか?」 「いや、千早の事なんですが…」 「惚気だったら、お断r(ry」 彼の口から千早の名前を聞き冷かそうと思った彼女だったが、その表情を見て言葉を止めた 何か、真剣に考え込んでいる様である 「…何か…、有ったんですか?」 「いえ、そう言う訳では無いんですが…。 あの…、最近千早をヘンだと思った事無いですか?」 無い訳では無い。あの時の雰囲気、そしてあの目の事 だが、それを口に出すのは躊躇ってしまう 「小鳥さん、些細な事でも構わないんです。 どんな事でも構わないですから。 …俺、最近、彼女に妙な違和感を覚えるんです」 「……迷ってました、プロデューサーさんに言って良い物か如何か。でも…」 「でも?」 「でも、言わなきゃダメだとも。 絶対にあれって…」 チラリと千早の方を一瞥する 今し方迄居たはずなのに、今、彼女の席にはその姿が無い 「おかしいと思ったから」 「やっぱり…何かヘンな所が?」 「ええ」 2人は気が付いて居なかった 千早が、無表情で給湯室に姿を消していた事を 「なら本当に構いません。言って下さい」 「判りました。 ほら、この前有ったじゃないですか、あの…」 「離れて」 ゾクリ あの冷気が、再び小鳥とPを襲う たった一言だけそう言って、彼女が2人の傍に立っていた 終わりが、今、始まりを告げ出す ■ 一瞬声が出なかった いや、出せなかったと言った方が正しい 何の抑揚も無い乾いた表情で佇む千早。そして、見つめるその目と輝き 確かに二人を見てはいる だが、その焦点は二人にでは無い。まるで二人の後ろに有る何かを見る様な焦点なのだ 『忘我』と言う言葉を知っているだろうか? 文字通り、我を忘れてしまう状態を指す言葉である それは大概、極度の感情に支配されて身も心も己が何をしているかさえ把握出来ない状態になっている つまり、普通の状態では無い…と言う事だ 今の千早は、正にそんな雰囲気に包まれていた これが本当に、あの千早なのか? 千早の姿をした、誰か別な人間じゃないのか? 「…ち、千早…。ど、どうした…ん…だ?」 やっとの事でPが口を開く。しかし彼のその声は酷く乾いていた 「離れて下さい。私は、音無さんに用が有るんです」 「な…、どんな…用が?」 「邪魔な人を排除するんです」 「っ!?」 「!?」 な…、何を言ってるんだ、千早は? 邪魔? 排除って、…排除って一体何の事だよ? 「は、排除って…一体、何を言ってるんだ!?」 「私のプロデューサーを、私から奪おうとする人。それが邪魔だから排除するんです」 「ば、馬鹿な事を言うな! 何が排除なんだ、何が!? おい、しっかりしてくれ! どうしたんだよ、千早っ!?」 「だって、私の大切な人を奪おうとするんですよ? そんな人達は…取り除いて行くだけの事です」 不意に、ついっと一歩千早が小鳥に近づく 次いで彼女の腕だけが、綺麗な弧の軌跡を描く 一度だけ光りを発して 「つっ!」 小鳥の顔が一瞬の後、苦痛に歪んだ 自ら腕を押さえ、鮮血が押さえた手の指の間から滴り落ちていく 「!? おいっ!? 千早、何してるんだ!? お前、それなんなんだよっ!?」 千早の手には、包丁が握られていた その切っ先には赤い液体が付いている。小鳥の血だ 「…だから……排除するんです……」 そう言ってユックリと包丁を両手で握り直し、振りかぶって行く 余りの驚愕に、呆然とした小鳥は動けない 「ばっ、ばかっ!? 止めろ、千早っ!? お前、一体何をしてるか判ってるのかっ!?」 脱兎の如く千早に飛びつき、後ろから羽交い絞めにする 「な、何をするんです? 私は、この人を取り除かなければいけ(ry」 「ば、馬鹿を言うな!」 「…何故です…? 何故、貴方が私を止めるんです? おかしいじゃ無いですか」 「そんな事出来る訳が無いだろ!? おい、誰か小鳥さんに手を貸してやってくれっ!」 「どうしてですか…? 貴方は…貴方は私だけの物なのに…」 「おい、しっかりしてくれよっ、千早!? どうしてなんだよっ!?」 「…もう、私の傍には貴方しか居ないのに…」 「しっかりしろ、千早!? 千早っ!?」 「私には、もう貴方だけしか…居ない……のに…………ゃぁ…あ、…ぁ…あぁ……ぁぁあぁ…ぁああああぁあぁああああああああっ!!!!!!」 「千早っ!? おいっ、千早っ!?」 悲しみに満ちた、絶叫とも叫びとも聞こえる千早の声が響き渡った だが、それが決して声だけの慟哭では無かったと感じたのは気のせいだったのだろうか? ――――――――――――――――――――――――――― 千早の心は、既に壊されてしまっていた あの両親の離婚の時に、抱いていた淡い期待と共に彼女の心までも 真っ直ぐで繊細で、脆いガラスの様な彼女の本当の心を 鎧を纏う事で、必死に自身で守り続けて来た彼女 弟を失って、一縷の望みを抱いていた両親にまで自分の元を去られて、本当に一人ぼっちに為ってしまった彼女 そんな、真っ暗になってしまった闇の中に灯る一つの暖かな灯明 何とか再び見つける事が出来た、縋り付ける者 言うなれば、彼女にとっては必要を超えた一種の『心の導』とも言うべき存在になっていったのでは無いだろうか? それを、他に奪われてしまったら 又、無くしてしまったら 再び、彼女は一人にされ闇に包まれてしまう その恐怖が、貴方には想像出来るだろうか? きっと、あの彼女の最後の叫びは彼女の心の叫びと同じ物なのだ ――――――――――――――――――――――――――― 鳥は、今日翼を失ってしまった 翼を失って籠に捕らわれてしまった もう、飛ぶ事の出来ない鳥は、一体どうすれば良いのだろう? 空を見上げる彼の目に、自由に羽ばたく一羽の鳥が映る 彼の瞳から、一滴の涙が頬を伝っていく